「女の子にひどいことができない」――それでも僕がドムでいられる理由

このサイトをやっていると、たまに自分でも不思議になることがあります。

僕は、好きな相手にひどいことができない人間です。
それなのに、SM・D/sをしている。
導く側、いわゆるドムとして。
並べて書くと、はっきり矛盾していますよね。
今日はその矛盾が、僕の中でどう折り合っているのかを書いてみます。

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僕は「ひどいことができない」側の人間です

これは昔からそうでした。

乱暴な人や、相手に偉そうな振る舞いをする人を、僕はどうしても尊敬できない。
性別に関係なく、相手を立てて紳士的に振る舞う人のほうが、ずっと格好いいと今でも思っています。
だから自分も、そうありたいと思ってきた。

だからこれは、才能でも血筋でもなくて、選んで身につけてきたものだと思っています。

実際、彼女が最初に「叩かれたりすると興奮するかも」と打ち明けてくれた時、僕の最初の反応は戸惑いでした。
好きな相手を痛がらせる、という絵が、どうしても頭の中で噛み合わなかった。

「勝ち取る」より「応える」ほうが、性に合っていた

正直に書くと、僕は自分に自信があるタイプではありません。

だから誰かと関わる時も、相手をぐいぐい引っ張っていくより、相手の気持ちをよく見るほうでした。
どうすれば嫌な思いをさせずに済むか。どうすれば喜んでもらえるか。
そればかり、人一倍考えてしまう。

その結果、僕は自然と「尽くす側」になっていきました。
相手に喜んでもらうことが、そのまま自分の喜びになる。
見栄でも演技でもなくて、たぶんこれが僕の素のかたちです。

SMは、僕が始めたかったわけじゃない

ここが大事なところです。

僕はもともと、SMやD/sを自分からやりたくて始めたわけではありません。
きっかけは、彼女が「ちょっと興味があるかも」と打ち明けてくれたことでした(その始まりは「僕らがSMを始めたきっかけ」に書いています)。

相手が興味を持っているなら、どうしたら喜んでくれるだろう。
そう思って調べて、おそるおそる提案して。
僕のSMは、最初から最後まで「相手の求めに応える」かたちをしています。
もし彼女が言い出さなかったら、僕はたぶん今もずっとバニラのままだったと思う。

つまり僕にとってのSMは、欲望をぶつける場所ではなくて、応答なんです。
応答だけれど、どう応えるか、舵を握るのは僕のほう。
そこは手放しません(このあたりは「サービス・ドムとは」に書きました)。

「ひどいことができない」は、弱点じゃなかった

ドム側に立つと、暴走してやりすぎてしまう人もいると聞きます。
盛り上がって、相手の限界を超えてしまう。

でも僕の場合、そうなりにくい。
根っこにあるのが「この子にひどいことはしたくない」だからです。
アクセルより先に、ブレーキのほうが体に馴染んでいる。

ただ、その怖がりも、それだけでは安全装置にはなりません。
調べて、話し合って、という手順とセットになって初めて効く。
優しさは出発点で、実際に守ってくれるのは行動のほうです。
実際、僕らは一度試したプレイを「これはリスクに見合わない」と話し合ってやめたこともあります(その話は「引き算のSM」に書きました)。

導く側なのにいちばん怖がっている。
でも、その怖がりと、それを行動に移す手間が僕の安全装置になっている。
「ひどいことができない」性質は、ドムの弱点どころか、たぶん僕がいちばん信頼している長所でした。

念のため書いておくと、僕がここで「ひどいこと」と呼んでいるのは、相手が望んでいないことを一方的にすること。
合意があって、相手が望んでいることに応えるなら、それはひどいことの逆で、ケアだと思っています。
そして、その線をちゃんと引けること自体が、ドムにいちばん要る感覚なんじゃないか。最近はそう思っています。

もし「自分は優しすぎてSMに向いてない」と思っているなら

最後に、これを読んでいる誰かに向けて。

もしあなたが「自分は相手に強く出られないから、こういう世界には向いていない」と思っているなら、向いていないんじゃない。逆です。

相手を尊重できること、ひどいことに抵抗を感じられること。
それは、ケアと合意を「地」でやれる、いちばん大事な適性だと思う。
プロの怖い女王様みたいになれなくていい。
必要なのは権威ではなくて、相手の様子をちゃんと見られる優しさのほうです。

僕みたいな、紳士でいたいだけの普通の人間でも、ちゃんと続けられています。
だからきっと、相手をちゃんと見て、調べて、話し合おうとするあなたにも、できます。


D/sは「どれだけ激しいか」で測るものではなく、ふたりがどこに心地よさを置くかで決まります。
そのあたりは「D/sの”濃さ”はふたりが決める」に書きました。あわせてどうぞ。

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